日々雑感

とりとめのない感想

おばあちゃんのこと

母方の祖父母は、終戦後中国から引揚げてきた。

 

祖父は金沢の生まれだったが、尋常小学校を出て単身満州に渡り、南満州鉄道の学校に入り、その後南満州鉄道で働いていたそうだ。

祖母は、曾祖父母が貿易の仕事をしていた関係で中国で生まれ育ち、若くして曾祖父が亡くなった後は、旅館を経営していたそうだ。

そして、友達の紹介(!)で出会い、周りのお膳立てでトントン話が進んでしまい(!)、結婚してしまった(!)ということだ。(祖父はハンサムだったので、自他共に認めるイケメン好きの祖母は好きだったかもしれない。)

その後、祖父に召集が来たが、(訓練中は時々うちに帰って来れてた?)、その時期に祖母が妊娠したため、姑に浮気を疑われたりしながらも、私の伯父が誕生。(伯父は祖父にそっくりなので、浮気はしていないと思う。)

そして、戦後、中国から家族3人が日本に引き揚げる時、母は祖母のお腹の中だった。当時2才だった伯父は、何度も歩かなくなったが、後ろを歩く人たちにバケツリレーのようにして戻してもらいながら、なんとか連れ帰ることができたという話だった。そして日本に着いてすぐに長崎の親戚の家で、布団を敷いた直後に母が産まれたそうだ。

日本に帰ってからは、祖父の故郷である金沢で曾祖父母としばらく暮していたが、質素倹約で男尊女卑(まぁ、当時は当たり前だったと思いますが、祖母は大陸育ちだった為受入れ難かったよう。)の姑に「女は魚を煮た汁で煮た野菜を食べろ」と言われたことにぶち切れ(たことが原因だったかはわからないけど)、「私はこの子達以外なにもいらない」と言って、乳飲み子だった母と伯父を連れ家出、祖父は、「駅まで送ってくる」と言って、手ぶらで長崎まで着いてきてしまったそう。しかし、長崎ではとても田舎での生活だったため、周りの人たちから受け入れてもらえず苦労したという。その後、なにかの縁があって福岡に住むことになったようだ。

 

祖父は私が小学生の時に亡くなったので、あまり覚えていることがないのだが(ごめんなさい、おじいちゃん)、祖母はユニークで、私達孫の面倒も良く見てくれていたので、いくらでも思い出が出てくる。

 

<おばあちゃん覚書>

○ハンカチを人にあげる時には相手から10円もらうこと。そうしないとお別れしてしまう。(子どものころから教えられてきたので、母や弟やいとこも信じている。祖母は中国で育ったため、中国の言い伝えを私達に言っていたのだと思う。)

○謎の医師
若い頃はぼーっとしていたそうだが、娘時代に有名なお医者さんに1日目は1錠、2日目は2錠、3日目は3錠…と決まった数を飲む薬を飲まされ、それが終わったころに頭がすっきりして頭が良くなったそう。

○謎のドイツ人歯科医師
虫歯を全部抜かれたので、若いころから総入れ歯だった。

○度胸イングリッシュ、昔身に付けた上海語で晩年まで外国人と交流。外国人を見ると、必ず英語で話しかけていた。(弟の結婚式の時にも、式場の神父役の外国人にすぐに話しかけていた。その場面が一番面白かった。)

○50代で、製パンと製菓を学び、ドイツにも短期留学。自宅や公民館で、パンやお菓子を教えていた。(軽自動車のトランクに電気オーブン積んで、いろんなところに教えに行ってたなぁ。)

○新しいお菓子にも敏感だった。カヌレを初めて食べたのもおばあちゃんに焼いてもらったものだった。所謂ショートケーキの類のもので、味に関して言えば、おばあちゃんが作ってくれたもの以上においしいものを私は食べたことがない。
あと、料理はそんなに得意じゃなかったけど、鱈の胃の炊いたのだけはめちゃくちゃ美味しかった。(福岡出身じゃなかったのに、お盆には必ず炊いてたなぁ。)

○チャレンジ精神が旺盛だったため、マジ?!というものも作っていた。塩味の生クリームの話は、いとこたちと今でも盛り上がる。

 

この時期になると、祖母のことをよく思い出す。命がけで日本に帰ってきてくれたおかげで、今の私たちがあるんだよな。本当に感謝しかありません。

おばあちゃんがいつも飲んでいたキンダービール(と呼んでいたビールにオレンジジュースを入れたもの、きっと子供の飲み物だという意味だったのかな?)を飲んで、今日は偲ぼうと思う。